女性運動はなぜHPVワクチンを語らないのか
この沈黙は偶然ではない。むしろ構造的な矛盾が、その静けさを作り出している。普段女性の福祉に関心の高い人たちがHPVワクチンの話題に参加してない理由を丁寧に解きほぐしていくと、フェミニズム活動家や市民社会が直面している葛藤の深さが見えてくる。被害者への連帯と科学的根拠の間で、多くの人が言葉を失っている現実がある。
「薬害」という言葉が持つ歴史的な磁力
日本社会において、「薬害」という二文字は特別な重みを持つ。サリドマイド、スモン、薬害エイズ——これらの悲劇を経てきた日本では、国や製薬企業に対する不信感が社会の底流に根強く存在する。HPVワクチン副反応被害者団体が組織され、薬害訴訟(HPV関連)が司法の場に持ち込まれると、市民運動の文脈の中でこの問題は急速に「薬害問題」として位置づけられていった。
女性の権利運動に関わる人々の多くは、過去の薬害被害者支援にも連帯してきた経緯がある。だから今、HPVワクチンを積極的に推奨する側に立つことは、自分たちの運動の歴史を否定するように感じられる——そういう内面的な葛藤が確実に存在する。公衆衛生政策の専門家が「有効性と安全性は確認されている」と言っても、運動体の感情的な文脈はそう簡単には動かない。
ワクチン積極的勧奨差し控えが生んだ認知の歪み
2013年、厚生労働省はHPVワクチンの積極的勧奨差し控えを決定した。これは医学的な安全性の否定ではなく、あくまで「接種後に生じた症状との因果関係を精査するための一時的措置」という位置づけだったが、メッセージとして社会に伝わったのは「国がワクチンを止めた」という事実だった。
この9年間の空白は決定的だった。接種率は70%台から1%未満まで急落し、その間に子宮頸がんで亡くなった女性の数は確実に積み上がっていった。日本産科婦人科学会をはじめとする医療団体は繰り返し警鐘を鳴らしたが、政策の流れを変えるには時間がかかりすぎた。そして皮肉なことに、この「差し控え」という行政判断そのものが、女性運動の一部にとって「被害者を守った国の措置」として解釈される余地を作ってしまった。日本のワクチン行政の迷走が、認知の歪みを生産し続けたのだ。
女性福祉運動と医療政策の間に横たわる沈黙の構造
ここが核心部分だ。女性の権利に強い関心を持つ活動家や識者がHPVワクチン議論に加わらない理由とは何か。子宮頸がん予防と女性福祉運動の間に潜む沈黙の構造的矛盾を解説する前に、一つ確認しておきたいことがある。フェミニズム活動家の多くは、この問題を「知らない」わけではない。知っていて、踏み込まない。
その理由の一つは、HPVワクチン副反応を訴える被害者たちも「女性」であるという事実だ。ジェンダー平等を掲げる運動体にとって、女性の訴えを「科学的根拠が不十分」として否定することは、自分たちのアイデンティティと矛盾する。被害者の声を聞く姿勢と、公衆衛生政策の科学的評価の間でどちらかを選べない——この引き裂かれた状態が、参加しないという選択を生んでいる。もう一つの要因は、オンライン上での激しい議論の構図だ。HPVワクチンを推奨する側と懐疑的な側の対立は、しばしば感情的な攻撃を伴う。その戦場に飛び込むことで、女性の健康権というより広いアジェンダが損なわれることを恐れている識者も少なくない。
子宮頸がん検診制度の限界と政策的空白
ワクチン議論の陰に隠れているが、子宮頸がん検診制度にも深刻な問題がある。日本の子宮頸がん検診の受診率はOECD諸国の中でも際立って低く、40〜50%台を推移している。イギリスやオーストラリアが80%を超えているのとは対照的だ。検診とワクチンの二本柱で予防を実現するという戦略が機能するには、その両方の整備が必要だが、検診制度の側の議論は社会的な注目をほとんど集めていない。
女性の健康権という観点から言えば、ワクチンよりも検診制度の改善の方が、より多くの女性に恩恵をもたらすという主張もある。確かにそれは一理ある。しかし問題はワクチンか検診かという二択ではなく、なぜ両方の議論が同時に活発化しないのか、という点だ。社会運動と医療政策の乖離は、ここにも如実に表れている。
国際比較から見えてくる日本の特殊性
オーストラリアはHPVワクチンの普及によって、子宮頸がんを「排除可能な疾患」の段階まで追い込んでいる。スウェーデン、デンマーク、イギリスも同様の軌跡を描いている。これらの国々では、フェミニスト的な観点からHPVワクチン推進が論じられることも珍しくない。「女性の体を守る権利」としてワクチン接種を位置づける言語化が定着しているからだ。
翻って日本では、同じワクチンが「薬害の文脈」と「女性への抑圧」という二つの対抗言説に挟まれている。特に性感染症としてのHPV感染という側面が強調されると、「なぜ女性だけが接種しなければならないのか」という問いが浮上する。これはジェンダー平等の観点から正当な問いだが、その問いがワクチン接種全体への懐疑に接続されてしまうと、公衆衛生上の損失は計り知れない。男性へのHPVワクチン接種が定期接種に加わった現在でも、この議論の構図はなかなか変わっていない。
沈黙を破るための言語をどう作るか
問題の本質は、女性の健康を守る運動が、女性の健康を守るワクチンについて語る言葉を持てていないという逆説にある。この状況を変えるには、被害者の経験を否定せずに科学的評価を語る言語、そして女性の身体的自律性としてワクチン選択の権利を再定義するフレームワークが必要だ。
一部の若い医療者やジェンダー研究者の間では、その試みが少しずつ始まっている。「HPVワクチンは女性の健康権の問題だ」という切り口で語り直す動きが、SNSや学術誌の両方で見られるようになってきた。ただその声はまだ小さく、既存の運動体の中心部には届いていない。社会運動と医療政策の乖離を埋めるには、どちらか一方の側が歩み寄るだけでは足りない。対話のテーブルそのものを新しく設計し直す必要がある。
子宮頸がんで亡くなる女性の数は、政治的立場や運動の文脈に関係なく積み上がっていく。その現実を前に、沈黙はもはや中立ではない。参加しないことそれ自体が、一つの政治的選択になってしまっている——そのことに、女性の福祉を本気で考える人々は向き合わなければならない時期に来ている。 (出典: 普段女性の福祉に関心の高い人たちがhpvワクチンの話題に参加してない理由(Yahoo!ニュース))